私は弱い。
今回、つくづくそう思った。
よく、Adoの「私は最強」の歌を聞くようにしていて
その曲を着ている最中は、私は最強になったつもりで聞くことができるため私は強いと思っている。
でも、非常に弱い時が多々ある。
特に、恋愛系にて私は弱い。
詳細→【最愛の人を失った時の乗り越え方:ポイントは「希望」】
とんでもなく弱い。
これまでの人生が違ったのではないかなんて余裕で考えることができるし、
自分の人格や歴史の全否定だって全然できる。
自分が自分を一番認めてあげなければならないのに、
自分が自分の弱さまで全て認めて承認して褒めてあげなければならないのに、
恋愛となるとそれができない。
非常に脆い。
では、別ジャンルではどうなのか
と考えると
別ジャンルではメンタルが著しく強い。
仕事
例えば仕事。
仕事では、10失敗して1成功するくらいが当然だと捉えているため、
全然失敗しても辛くならない。
むしろそこの感覚は鈍っている方で、
失敗ほど成功につながるのだから
失敗の経験すらありがたいと思えている。
最悪の状況時
私は、人がパニックになりそうな最悪の状況の時にも強い。
大事な関係の場合逃げない自信があるし、とことん向き合う。
これは私の強さだ。
そこは自分を信頼しているし、私の強さにおいて自身のあるところだ。
それなのに、恋愛においてはメンタルお豆腐
仕事や最悪の状況の時などでは、人によく「慌てないし動じないしメンタル強い」と言われる。
だが、恋愛においてはメンタルお豆腐すぎる。
どうしてここだけこんなに欠けているのだというほどメンタルが弱い。
恋愛にだけメンタルお豆腐な理由
なぜだか考えてみた。
最悪な状況では、乗り越えれば後は上に向かうしかない。
つまりそこさえ乗り切れば、また状況は上に向かうのである。
仕事では、とりあえず稼げる手段があれば良いわけなので、
その形態が何であろうと稼げれば良い。
だから、手段に執着やこだわりがない。
代替可能。
だがしかし恋愛だと
一気に、究極に代替え不可能になる。
自分の好きになった人に失恋した場合、もうその人との人生はおしまいである。(特にその人が結婚した場合は尚更)
しかし私は滅多に人を好きにならないことを自覚しているため、
「それ以上素敵な人が現れるのか」
「この人が最上だったのではないか」
と考えてしまう。
詳細→【好きな人の好きな人になりたかった】モテることは無意味
ここが原因なのではないかと考える。
他のジャンルでは代替え可能なのに(人間関係以外では)、
恋愛におけると途端に代替不可能になることが
執着や未練の原因になっているのではないかと考えた。
ということは
恋愛は
いつでも代替え可能なのだということを解れば
執着や未練が発生しない可能性がある。
しかし
誰でも良いから遊んでみたり付き合ってみたりする
という状況を作ってしまうと
自分が虚無で満たされるリスクがある。
余計に泥沼にハマってしまうリスクがある。
これでは、自分が自分の心を傷めつけてしまうことになるので本末転倒だ。
自らが自らの価値を下げにいっているようなものだ。
自分のことを大切にしたいし、大切にした上で他者にも優しくできるのだから、自分の価値を自らが下げてはならない。
自分が自分の一番の味方でいなければならない。
では、どうしたら良いか?
恋愛においてメンタルお豆腐を治す方法
代替え不可能
その人しかいない
という考え方を修正させる必要がある。
実際、たしかにその人は素晴らしい人だった。
本当に人間性の素晴らしい人だった。
その希少価値は認めるし、自分の見る目の素晴らしさも認める。
ただ、「そんな素敵な自分にはもっと素敵な人が現れる」
この発想に変換すれば良いのではないかと考えた。
自分の1番の味方でいて、自分のことを守りながらも
そんな素敵な自分には、もっと素敵な人がいる可能性があるのだから、その芽を潰してはならない・もったいない
と思うようにした。
実際、私は素敵な人なんだから、素敵な人がお似合いのはずだ。
その時に私を選ばなかったその人は見る目がないから、惜しいことをしたな可哀想に
くらいまで持っていくと良い。
そうすると
自分磨きに集中できるし、それがまた良い結果を生み出すと認識する。
となると
過去に執着せずに前向きな気持ちで生きていくことができる。
たった一度の人生
お花にはお花が寄ってくる
臭いものにはハエが寄ってくる
私は素敵なお花なんだから、悲しんでいたらもったいないし
その時間誰かに優しくすることに使えるからもったいないし
そんな素敵な自分の価値に気づいてくれる私のような人が、存在する。
そうだよ。
だから前を向いて希望を持って生きていこうね
ポイントは、希望なんだね
コメント